。。。。●【米原万理さんを偲んで!】(2006.08.08)



★。。。米原作品。。。★【ガセネッタ&シモネッタ】より。。。★

◆「一コマ漫画にはかなわない」◆
 そもそも、同時通訳という、過酷にして本質的に無理のある営みが生まれたのは、時 間の節約の必要性もさることながら、同じ話を聴いている人々が抱く、皆と同時に喜怒 哀楽を共有したいという至極当然な願望に突き動かされてのことではないだろうか。と くに笑うときは、いっしょに笑いたいという欲求が強いものだ。笑いほど表に現れやす い反応はないからだろう。

 たとえば、次のような光景を想像してみてほしい。話し手がひどく面白いことを言っ て、話し手の言葉がわかる人々だけは腹を抱えて笑い惚けているというのに、聴衆の大 半を占めるその言葉が理解できない人々は置いてきぼりにされて、寂しそうである。よ うやく通訳の訳を聞き終えてから彼らぱ笑うのだか、この笑いには、最初のグループの 笑いほどの力はない。おかしな話を聴かされるとは露ほども疑っていない人々が突如笑 わされたときのインパクトは、これから笑わされるぞと身構えている人々には、もうな いからだ。時間差をつけて笑う人々を見やりながら、先に笑い終えた人々は何となく白 けてしまい、会場には寒々とした空気が流れる……。ああ、やはり笑いだけは同時がい い。

 というわけで、笑いの同時性のためにこそ、同時通訳はあると言って過言ではないく らいなのだが、異なる文化圏の人々に笑いを通訳するほど難しいことはない。駄洒落は 論外としても、言葉から立ち上るイメージや連想は、文化によってかなり食い違うからだ
 だから、わたしが常日頃悩まされているこのバリアを軽々と飛び越えてしまえる「ーコ マ漫画」には、羨望を禁じ得ない。

 もちろん、それは容易ではない。多くの笑いは、常識で凝り固まった脳味噌が、思い も寄らなかった新たな視点によってショックを受け、揉みほぐされる快感から生ずるも のが多いのだが、この常識からして国によって異なる。

 それに、笑いは、実にデリケートな代物だ。 「絞首刑になった者がいる家で縄の話をするな」 というように、同じテーマに立場によって笑える者と怒る者と悲しむ者がいる。人種 差別的なジョークなど、その最たる例だろう。

 それでも人類には相違点より共通点が多いはずだ。そういう楽天的な確信が、根幹に あってこそ、通訳など介さずに、世界中の人々を同時に抱腹絶倒させようというーコマ 漫画の野心的傑作が生まれるのだろう。

(ナカサムより。。。)
(この一言は「読売国際」の選定者になられる前の一文です。識見のある人と。。。)

◆無断転載・複写・複製禁止!!◆ (笑)

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